コロナ禍で、84才になるの母との会話が増えました。
先日母から、「あなたは、生まれ変わったら、どんな国の人になりたい?」という問いかけがありました。
私は、とっさに、「今が良いので考えたこともないよ」と言いました。
すると母はすかさず、「生まれ変わったらとか、あなたは考えないの?」と。
それに対して私は少し困って、「あのね。生まれ変わりなんてのは・・・」と、ごく当たり前の話を展開してしまいました。
その後、犬の散歩をしながら自分のまずさに気がつきました。
話の内容そのものではなく、その気持ちに寄り添えばよかったなと。
言葉に現れる部分は、そのイメージをつかみやすい。
ところが、その背景にある想いは、つかみどころがない。
それはなぜか?
一方が具体的で、もう一方が抽象的だからです。
良くビジネスでは、「君の話は抽象的で分かりにくい。もっと具体的にい言ってくれないか」というフレーズを耳にします。
もちろん。この指摘そのものは間違いではないのですが、「具体」が良くて「抽象」は悪いというレッテルをつけてしまうと、マズい場合も往々にしてあるのです。
私の母との会話例では、「生まれ変わり」というのは具体的に発せられた言葉です。
その母の背景に流れている想いは、「空想の話を楽しみたい」ということです。ここは言葉として表現されない部分。
私の耳がビジネスモードになっていたので、聞き取ることが出来なかったのでしょう。
しかし、愛犬とお散歩をして、日常モードになると、すっと、その想いに触れることが出来ました。
「あたしだって若いころは、そんなことは考えることもなかった」
あとでその言葉を聞いて、私は、ハッとさせられました。
そろそろ小旅行でも連れていこうかな。
感性Lab.岡田裕之